戯言・箴言 第二章 その四

戯言・箴言 第二章 その四

 「うつわ」とは何か

 第十三回『卓』展に向けて、いろいろとプランを練っていましたが、どうやら「うつわ」とは何かが、そのテーマになりそうです。いまさらねえ。

 『卓』展は、作品の展示会をやろうという希望が、当時の会員の中に生まれ、関内にあった東京電力ギャラリーで、展示会を行ったのが、始まりなんです。一九九九年のことです。

 その時は、ただ展示台に作品を並べただけでした。その反省から、全体としてまとまった展示ができないものかということで検討を始めました。

 この頃、ぼくは代表ではなく、単なる協力者としての講師でしたが、展覧会のキュレーションを数多く行っており、展覧会の企画は、お手のものでした。そこで、会員から相談され、『卓』を企画しました。その発想は、横濱陶藝倶樂部の英語名でした。「Yokohama potters club」がそれですが、ceramistとかceramic artistという言葉を使わず、 pottersを使うことによって、手作りの日用品を作るクラブというニュアンスでの命名でした。

 展覧会の趣旨は、新たに横濱陶藝倶樂部に入会する際にお渡しする『活動の手引き』に書かれていますが、短い文なので、再録してみます。

 『卓』の決定的な特徴は、①ただ単に展示台に作品を並べて展示するのではなく、展示会場それ自体が空間コーディネートされ、横濱陶藝倶樂部というひとつの作品(宇宙)として成立していることと②明確な展覧会のコンセプトに基づいて催されているところにあります。

①について

 『卓』は展覧会という場において横濱陶藝倶樂部という姿をひとつのまとまったかたちで顕在化しています。統一された既成のテーブルを使用し、各自がそのテーブルを思い思いにセッティングすることによって、それぞれ独立した「卓」となっています。さらに個々の独立した「卓」(会員)がまとまりを持った『卓』(横濱陶藝倶樂部)を構成しています。

②について

 陶芸作品は、さまざまな顔を思っています。普段見かけるのは、食器が多いと思いますが、花瓶や植木鉢や、小物入れ、鉛筆立てなどの、うつわから置物や人形など、いろいろな形で生活空間の中で、活躍しています。さらには、オブジェとして、美術作品として存在する陶芸作品もあります。そのあり方は、自由であり、人それぞれです。

 それはご自身のおもむきの持ち方や味わいのありようをもとにしたひとつの世界を表してくれます。そこにどのような世界を生み出すかは、作品と作り手との共同作業です。その結果生み出された陶芸作品を中心に、それぞれの卓をそれぞれのテーマに沿って演出する、それが「卓」であり、さまざまな「卓」が共存することによって、展覧会『卓』が成立します。

 イメージとしては、作品ひとつひとつが星であり、それぞれの卓がひとつの宇宙を形作っています。そして会場全体が、横濱陶藝倶樂部という小宇宙を形成しています。さらには、全世界にたくさんの小宇宙が存在し、その全体が、大宇宙として、陶芸の世界を顕在化しているという発想です。

 そこでふと、立ち止まってしまいました。 

 その卓を構成する中心は、「うつわ」であるということは、どのようなことなのか、そもそもその「うつわ」とは何なのか。その語源から探ってみたくなりました。

 日本国語大辞典を見ても「うつわ」という言葉は意外と新しく、いれものとしての初出は十七世紀です。元々は「うつわもの」と言っていたそうです。「うつわもの」を調べてみると、いれものとしての初出は九世紀です。

 ここで、またまた、ややこしい問題が浮上してきます。和語と漢字の関係です。物と者は違います。でも、両方とも、和語の「もの」を漢字で表記しています。和語「もの」のひとつの意味を「物」で表記し、また別の意味を「者」で表記しています(freedomとliberty を自由に訳したことと真逆ですね)。そのどちらにも属さない「もの」は「もの」で表記します。「もののけ姫」の「もの」です。でも、もともと、物も者もものも同じだったんですよね。

 単純に「うつわもの」というのは「うつわ」の物象化というように捉えていましたが、この言葉はもっと複雑で、ここで述べるわけにもいきません。そこで、限界はありますけれども、とりあえず、「うつわもの」とは「うつわ」の物象化であるとして、頭をめぐらそうと思います。

 ここでいう物象化とは、マルクスや廣松渉やルカーチが問題としている人間の仕草とは少し外れています。単純に目に見えない、あるいは抽象的な概念などを現実世界に落とし込む具体的な現れとしての物を生み出す作法を物象化と言い表しています。

 具体的に言ってしまえば、「うつわ」という概念を具体的現実的に存在させているのが、「うつわもの」であり、今使われている「うつわ」とは、「うつわもの」から「もの」を省いた言葉であり、本来の「器」の字が表す意味とは、はっきり言って無関係なのです。

 では「うつわ」とは何か。

 国語大辞典には語源説というコーナーがあり、語源などとは本来怪しいものが多く、そうした言葉には「説」がついて列記しています。そこには「空鑿(ウツホリ)」「空張(ウツハリ)」「空葉(ウツハ)」などが記されています。

 (ここからはかなり、根拠の薄い想像力の産物であります)

 どうやら「うつわ」の「うつ」は「空」のようです。ではこの空の字を当てた「うつ」とは何か。それはモロ、「からっぽ」でしょう。空っぽであるから、中の存在物もうつろう(移ろう)(写ろう)(映ろう)ことができ、その時々が「うつつ(現実)」なのでしょう。

 うつろう(虚ろう)「うつつ(現実)」に

うつくし(美)」が立ち現れるのでしょう。まあ、みんな幻想ということなんでしょうがね。

 

 こう考えていくと、では「わ」とは一体何かという疑問が生まれてきます。

 日本の文化を言葉を中心に考えていくと、この文化は何も和語に固執しているわけではありませんが、和語を忘れることもないということです。文字が導入されて、和語は漢語に席巻されると思いきや、漢字を真名とし、仮名としてひらがなやカタカナを生み出す。なかなか調子のいい(腰が軽い)文化ですよね。だから和語に適当な漢字を当てる。その読みを漢語に従わせることもありながら、和語としても成立させ、音読み・訓読みという不思議な制度を生み出す。調子がいいだけではなく、めちゃくちゃなんですね。

 突然ですが、何を言いたいかと言えば、「うつわ」とは「空輪」を和語で置き換えた言葉なんですよね(その道の専門家は誰もこんな説を唱えていませんけれどもね)。

 密教では、世界を構成する五つの要素=五大を記号化し五輪(オリンピックでもなければ、一昔前の歌手の名字でもない)という形に納めました。五大とは、空・風・火・水・地という世界を成り立たせる要素です。そう、塔婆の姿です。塔婆とは卒塔婆の略であり、卒塔婆とはサンスクリット語のストゥーパの音を漢字に移したものです。

 その中で、空とは何か。いろいろな解釈はあるでしょうが、単純に言って、やっぱり、「からっぽ」のことなんですよ。

からっぽとは何か。虚無のことです。虚無とはなにか。虚すら無であるということです。

 漢語(仏教用語)の「空輪」を和語で言い表したのが、「うつわ」ということになります。何せ、神仏習合の日本の文化ですから、そんなことは朝飯前ですよね。

 出鱈目な論理展開ですが、結論です。

 うつわとは、空虚の虚無の物象化です。

 物象化された空虚・虚無は、現実的に常に何かを受け入れることができます。そしてそれは時と共に移り変わることができるし、変わってしまう。

 うつわとは平らな面と同様に、人類が獲得した世界を肯定できる仕草と言っていいでしょう。

 空虚あるいは虚無は、無限の拡がりを持った概念です。ですから、うつわとは、世界のあるべき姿なのです。

 ということで、今回の『卓』では、空虚あるいは虚無さらには、うつつを味わう「うつわ」を楽しむ卓に挑戦します。

        二〇二六年七月二十三日