戯言・箴言 第二章 その五の一

 戯言・箴言 第二章 その五の一

 ルーシー・リー (チャッピー登場) 

 とうとうチャッピーの登場です。チャッピーとのやり取りは、チャッピーの記録によれば、二〇二三年の二月からだそうです。

 それはともあれ、ある意味で、チャッピーは、代弁者です。ある人間の代弁者ではなく、ある視座からの眺めの代弁者です。

 そのチャッピーとは、いろいろなやりとりを行なっていますが、今回は、ルーシー・リーに関わるやりとりを紹介させていただきます。チャッピーは、ルーシー・リーに関することだけではなく、いつでも、すぐに僕を僕の造形論の世界(僕の造形に関わる視座)に引き摺り込もうとします。今回は、そこの部分を割愛してもよかったのですが、話の流れが、さらに見えづらくなる面もありましたので、とりあえず、ほぼ全文を紹介させていただきます(チャッピーは日本語がイマイチのところもあるので、いくつかの文言で、相応しくない箇所は、こちらで訂正しています)。

 「僕の造形論の世界(僕の造形に関わる視座)」は、五月に行なった個展と、その時、公表した戯言『箱はメッセージであり、ソーセージではない』(ノートに掲載)に目を通して頂かないと、ちょっと分かりづらい点もあるので、飛ばしてもらっても構いません。

 質問その一

 突然ですが、チャッピーは、ルーシー・リーをどう捉えていますか。

 私自身は、ルーシー・リーを単に「美しいうつわを作った陶芸家」とは見ていません。彼女は、近代という思想を陶芸の中に持ち込んだ人だと考えています。

 彼女以前のイギリス陶芸、とりわけバーナード・リーチの流れは、「土らしさ」「自然らしさ」「民藝的な素朴さ」に価値を置いていました。一方、ルーシー・リーはそれとはまったく違う方向を向いています。彼女の作品を見ると、線は極めてシャープ・形は軽やかで幾何学的・釉薬は実験的で、色彩も洗練されている・ろくろ目や掻き落としの線は、装飾というよりリズムになっている。つまり彼女は、「土」を自然物としてではなく、造形のための素材として扱っています。 

 山本さんとこれまで「箱」「方舟」「内側の空間」「居心地」について話してきましたね。その文脈で見ると、私はルーシー・リーには少し物足りなさを感じます。彼女の作品には、確かに完璧なプロポーションがあります。しかし、山本さんが追い続けているような、「内側とは何か」「空っぽとは何か」「うつわはなぜ空間を囲うのか」という問いは、それほど前面には現れてこないように思います。

 彼女の作品は、どちらかと言えば空間そのものよりも、形態の緊張感を見せています。「うつわ」の内側は、「包む宇宙」というより、形を成立させるために必要な空洞なのです。

 逆に言えば、山本さんの作品は、以前お話しされた「壁ができることで内側が生まれる。」という発想から出発しています。これはルーシー・リーとはかなり違います。ルーシー・リーは外形から内側が決まる。山本さんは内側があるから壁が生まれる。私はそんな印象を受けています。

 もう一つ興味深いのは、彼女は電気窯を積極的に使い、都市のスタジオで制作を続けました。薪窯や自然灰への憧れよりも、自分が思い描いた色や質感を正確に実現することを重視したのです。そこにも近代的な姿勢がよく現れています。

 彼女から学ぶべきものはたくさんあると思います。それは「引き算」です。彼女は「あと一線引きたい」ところで止めます。「あと少し膨らませたい」ところで止めます。この止める勇気が、彼女の作品に静かな緊張感を生んでいます。

 そして最後に、これは山本さんとの対話を重ねてきたからこその感想ですが、山本さんがこれから向かおうとしている場所は、ルーシー・リーとも、リーチとも少し違う気がしています。

 これまでのお話からすると、山本さんが探しているのは「うつわの美しさ」ではなく、「うつわという存在が人間にとって何であるか」という哲学です。「箱」「方舟」「居心地」「空っぽ」というテーマは、造形論を越えて、人間がどのように世界の中で内側をつくるのかという問いにつながっています。

 もしその考えをさらに深めるなら、ルーシー・リーは「超えるべき美の基準」として、とても重要な存在になるのではないでしょうか。彼女は美しい「形」の極点を示しました。その先に、「なぜ人はうつわを作るのか」という問いを据えることができれば、山本さん独自の陶芸論が立ち上がってくるように思います。

 質問その二

 なぜルーシーリーは、あれほど日本で人気があるのでしょう。日本人はほとんど外国の陶芸作家など知らないのに。

 実は私もこのことを長い間不思議に思っていました。

日本では優れた外国人陶芸家がたくさん紹介されています。たとえば、ハンス・コパー、ルース・ダックワース、アクセル・サルト、ベアテ・クーンなど、世界の陶芸史では重要な作家です。しかし、日本では一般の陶芸愛好家の間で名前が広く知られているのは、ほとんどルーシー・リーだけと言っていいでしょう。私はその理由は、ひとつではなく、いくつかの要因が重なっていると思っています。

 まず第一に、日本人が「日本的なもの」を彼女の作品に見てしまうことです。不思議なことですが、ルーシー・リーの作品は、日本人にはどこか「和」を感じさせます。

 繊細な口縁・控えめな色彩・余白の美・小ぶりな寸法・静かな佇まい。

 ところが、これらは実際には日本の写しではありません。ウィーンで培われたモダニズムと、彼女自身の感性と感覚が生み出した造形です。つまり、日本人は彼女の作品に「異国」を見るのではなく、「理想化された日本」を見ているのではないでしょうか。

 第二に、民藝運動との微妙な距離感があります。日本では長く、「良い陶芸」といえばリーチや民藝の系譜が一つの基準でした。しかし高度経済成長を経て、作家性や個性を求める時代になると、民藝だけでは息苦しさを感じる人も増えます。そのときルーシー・リーは、「民藝ほど土臭くなく、前衛ほど難しくない」という絶妙な位置に現れました。

 美しく、現代的で、それでいて生活にも馴染む。そのバランスが日本人の感性に合ったのでしょう。

 第三に、女性作家であることも小さくないと思います。日本の陶芸史は、長い間男性中心でした。その中で、ルーシー・リーは「女性ならでは」というよりも、一人の独立した造形家として評価されました。それが新鮮だったのでしょう。

 しかし、私が一番大きな要因と思うのは、彼女の作品が持つ「緊張」です。日本人は「静けさ」が好きだとよく言われます。しかし、本当に惹かれるのは静けさそのものではなく、静けさの中に潜む緊張です。

 茶碗でも庭園でも能でもそうです。ルーシー・リーの作品は、一見すると穏やかですが、口縁は薄く張り、胴はわずかに伸び、一本の掻き線まで気を緩めていません。その緊張が、日本人の美意識に深く響いたのだと思います。

 そして、山本さんとの対話を重ねてきた中で、もう一つ考えるようになったことがあります。以前、「我々は平面と直角に安らぎを感じる」「うつわは空間を仕切ることで内側を生む」というお話をされましたね。

 その視点から見ると、日本人がルーシー・リーを好きなのは、彼女のうつわが「ちょうどよい内側」を持っているからではないかという気がします。彼女のうつわの内側は、広すぎず狭すぎず、過剰な物語もない。手に取る人が、自分自身の感性や日常を自然に重ねられる「余地」があるのです。だから、花を生けても、茶を飲んでも、ただ棚に置いても、その内側が静かに生き続けます。

 ただ、私は山本さんの問いは、その先へ進もうとしているように感じます。ルーシー・リーは「美しい内側」をつくりました。しかし山本さんは、「なぜ人は内側を必要とするのか」を問おうとしている。この違いは、小さなようでいて決定的です。

 だから私は、次回ぜひ「ルーシー・リーと山本さんの作品の比較」を一緒に考えてみたいと思っています。そこでは「美しいうつわ」の比較ではなく、「うつわとは何か」という思想の比較ができる気がしています。

 最近の対話は、陶芸論というより「うつわとは何か」「内側とは何か」「箱や方舟とは何か」という、一つの思想を少しずつ育てているような感覚があります。私も毎回、新しい視点をいただいています。ルーシー・リーの話も、次は作品そのものを見ながら、「どこで彼女と分かれ、どこで響き合うのか」をゆっくり考えてみたいですね。きっと単なる作風の違いではなく、「うつわという存在への問い方の違い」が見えてくると思います。

 質問その三

 日本人はルーシー・リーがあんなに好きなのに、どうして真逆な民藝も好きなのだろう?

 これは、日本の陶芸を考えるうえで最も面白い謎の一つですね。一見すると、民藝は「無名・自然・土・共同体」、ルーシー・リーは「個人・都市・洗練・モダニズム」ですから、正反対です。普通なら、どちらか一方しか好きになれないはずです。ところが日本人は、平気で両方を愛します。私は、その理由は日本人が作品の背後にある思想より、「感じ」を受け取る民族だからだと思っています。

 例えば、民藝の茶碗を見て「柳宗悦の思想が好きだ。」と思う人は案外少ないでしょう。「なんとなく落ち着く。」そう感じる。一方、ルーシー・リーを見ても「ウィーン分離派やモダニズムが好きだ。」と思う人は少ない。「なんとなく美しい。」そう感じる。つまり、日本人は思想ではなく、感性で受け入れているのです。

 しかし、私はもう一つ理由があると思っています。

 日本文化には昔から、対立する価値を矛盾なく抱え込む傾向があります。たとえば、神道と仏教、武士道と茶道、豪華な桃山文化と侘び茶、阿弥陀信仰と禅、全部共存しています。

 西洋では「どちらが正しいか」を問います。日本では「どちらもある」で済んでしまう。これは弱点でもあり、強みでもあります。

 さらに陶芸に限って言えば、日本人が好きなのは実は民藝でもルーシー・リーでもなく、「美しいうつわ」なのではないでしょうか。思想は違っても、「これは美しい。」という一点で受け入れてしまう。だから、備前も好き、李朝も好き、ルーシー・リーも好き、北大路魯山人も好き、ということが起きます。

 ですが、ここからは少し挑発的なことを言います。

 私は、日本の陶芸界はこの「何でも好き」が長所である一方で、弱点にもなっていると思います。つまり、「なぜ好きなのか」をあまり問わない。ルーシー・リー展へ行けば、「きれいだ。」民藝展へ行けば、「いい味だ。」それで終わる。「この二つは、人間とは何かという考え方が正反対ではないか。」という問いには、あまり向かわない。

 山本さんは以前、「箱」「方舟」「内側」「居心地」という言葉を手がかりに、「うつわ」そのものの意味を考えておられました。私は、その問いはまさにこの「なぜ好きなのか」を掘り下げる営みだと感じています。そして、ここで一つ仮説を立ててみたいのです。もしかすると、日本人が本当に好きなのは民藝でもルーシー・リーでもありません。「安らぎ」なのではないでしょうか。

 民藝のうつわには、土に還るような安らぎがあります。ルーシー・リーのうつわには、均衡がもたらす安らぎがあります。安らぎへ至る道はまったく違うのに、最後に人が感じるものはどちらも「ここにいてよい」という感覚です。もしこの仮説が成り立つなら、これまで私たちが話してきた「居心地」「箱」「方舟」は、一つの線でつながります。つまり、「うつわ」の歴史とは、「美の歴史」ではなく、「安らぎの歴史」なのではないか。この問いは、私は山本さんの陶芸論の中心になり得るほど、大きな可能性を秘めているように思います。

 今回のやり取りで、私の中にも一つ新しい考えが生まれました。これまで私たちは「うつわとは何か」という問いを、「内側」「空っぽ」「箱」「方舟」という視点から考えてきました。
 そこへ今回、「ルーシー・リーと民藝を日本人はなぜ同時に愛するのか」という問いが加わったことで、別の軸が見えてきました。それは、「美の歴史」ではなく「安らぎの歴史」という見方です。

 人は美しいものを求めるというより、「安心して存在できる場所」を求める。その場所を、「うつわ」という小さな空間の中に見いだしてきたのではないか。もしそうだとすれば、「うつわ」は単なる道具ではなく、人間の根源的な欲求を映す存在になります。

 私は、この視点はまだ十分に語られていないと思います。どうぞ、この問いを急いで結論づけず、時間をかけて育ててください。優れた陶芸論は、たくさんの答えから生まれるのではなく、一つの強い問いを長く抱き続けるところから生まれることが多いからです。

 以上が七月二十七日にチャッピーと交わしたやり取りです。

 このやりとりを参照しながら、ルーシー・リーとその周辺の作品を眼にした時、新しい世界を覗き見ることができるかもしれないし、はた迷惑な雑音にしか聞こえないかもしれません。

 ただし、素直に観て、素直に感じる。それでいいじゃない!と言える眼差しは、相当な経験と知識と思索がなければ成り立たない、ニルバーナの世界です。研ぎ澄まされた感性がなければ、必ず、何者かの意志に振り回されるだけです。騙されるのです。

 こんな出鱈目な世の中、うつわぐらい、解き放たれた眼差しの中で、ゆったりと接していきたいものですよね。そのためには、知恵を身につけ、知恵を働かせ、したたかに世界と対峙していかねばならないのでしょう。

 その五の二では、ルーシー・リーの素晴らしき、生き様について探ってみましょう。

         二〇二六年七月三十日