戯言・箴言 第二章 その三

戯言・箴言 第二章 その三

 続なんだかなあ

 川上弘美のいう、大切な「どちらでもいいこと」は、多分、現実的には、本当にどちらでもいいことで、どちらでもいいことではないことだけが、どちらでもいいことではないことなのだろうな。

 

 変な言い方ですが、視覚をはじめとする感覚は、常にどちらでもいいと無意識のうちに判断したことを排除してしまって、どちらでもいいことではないことだけに反応するんですよね。どこかで書きましたが、眼は世界の全てを取り込みますが、視神経はそれを選択して、認識構造へ送り込んでいくんですね。だから、眼が取り込んでいる世界と、眼に入り込んでくる世界(見える世界)とは違うんですね。

 何かを想像してみてください。例えば「美味しいメロンパン」。その時の想像の範囲は、メロンパンだけか、それともパッケージも含めてか、それがある(置かれている)情景か、季節か、時間か、天気か。それらは、それらを意識しなければ、想像もしないでしょう。メロンパンという像だけを想像することから、メロンパンにまつわるさまざまな要素までも想像するのでは、脳みその働きは、かなり違いますよね。

 何を言いたいかと言えば、(突然ですが)映画監督って大変だな、ということ。

 映画という手法は、像の全てをカメラに委ねるわけですよね。役者は、カメラがどう捉えるかを意識しながら、その役を演じるわけですよね。そして、眼と違ってカメラに取り込まれる全ては、「どちらでもいいこと」ではなくなってしまっているんですよね。にもかかわらず、カメラを回しているのは、カメラマンであって、監督ではないのですよ。映画監督って、すごい能力の持ち主だと思いませんか。実写なんですもの。失礼な言い方ですが、その点、小説家は楽チンですよね。描かれた文字以外は、読み手に振ってしまっているんだから。

 映画監督は、鑑賞者が、スクリーンのどこをどのように見ているかを読まなくてはいけません。鑑賞者は、監督の思いに従ってスクリーンに視線を送っているわけではないのですからね。人物のアップでも、背景とか音とかを計算しなくてはならないというか、全てが「どちらでもいいこと」じゃないんですものね。実写なんですから。

 小津安二郎の「どちらでもいいこと」ではない「どちらでもいいこと」って感じちゃいますよね。小津もそうだけれども、タルコフスキーのカメラワークは、本当にすごいですよね。

 そこでひとつの映画作品を取り上げようと思います。

 『HUGO』(邦題:ヒューゴの不思議な発明)-二〇一一年。ジェームズ・キャメロンが、「傑作」と絶賛したマーティン・スコセッシの映画。

 マーティン・スコセッシ。生粋のシチリア系イタリア移民二世。どうでもいいけれども、同じく、シチリア系イタリア移民の血を引くレディガガと同じ、ニューヨーク大学卒業。

 映画好きでなくても、この名前くらいはご存知でしょ。この名前を知らなくとも、ロバート・デ・ニーロの『タクシードライバー』は知っているでしょ。この『タクシードライバー』の監督でもあるスコセッシ。相当ヤバい映画監督ですよ。

 ここでスコセッシ論を始めるとキリがないので、やめておきますが、ひとつだけ。『グッドフェローズ』というマフィア映画の傑作と言われている、モロイタリアしている作品は、是非見てほしい作品のひとつですね(貸してあげるよ!)。

 このヤバいスコセッシが、二〇一一年に子供向けの映画をそれも3D作ったということで話題になった『Hugo(ヒューゴの不思議な発明)』。ゴールデングローブ賞・監督賞などたくさんの賞をとった映画なんですがね。同年に『ジョージ・ハリスン リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド』というドキュメンタリー映画も作っているんですが、こちらはあまり知られていないだろうなあ。

 『ジョージ・ハリスン リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド』も滅茶苦茶お気に入りのドキュメンタリー映画ですが、何より、ジョージのドキュメンタリーをスコセッシが作ったこと自体びっくりしましたね。年に一度は見ている映画ですね。

 そんなことよりも『Hugo(ヒューゴの不思議な発明)』です。うらおぼえですが、確か、日本公開は夏休みで、プロモーターが、たくさんの賞をかっさらった、さも子供向けの高尚なる映画みたいなコピーで宣伝したものだから、勘違いした親子が、それなりに映画館にうろついていたような記憶がありますね。うろつくとは失礼な言い方ですが、この映画を見て喜ぶ子供がいたら、お会いしたくなるような、大人でも難解な映画なんです。あの暴力とは何か、人間とは何か、生きるとは何か、がテーマの映画を作っていた監督が、子供向けの暴力とは縁が遠い映画となれば、うちの子にも見せたいと思う映画好きの親がいても当たり前でしょう。でも何回でもなければ、南海でもなく、難解なんです。その映画にゴールデングローブ賞・監督賞を与えた審査員は、はっきりいって「オタク」ですね。映画オタク。いいですねえ。

 そうはいっても、見たこともなければ、その存在すら知らない方には、訳が分からないですよね。

 あらすじという最悪な表現を引用はしたくないんですが、それなりのあらすじを探してみましょう。DVDにもなっているからぜひ見てほしいです(貸してあげるよ!)。

 

 まあまあ、ギリギリセーフのあらすじを見つけました(文句があるんだったら自分で書けよと自問自答していますがね)。

 (とあるサイトに載っていたあらすじ-注:山本)

 一九三〇年代のパリ。火事で父親を亡くした少年ヒューゴは、モンパルナス駅の時計塔に隠れ住み、鉄道の時計の保守点検をしながら孤独に暮らしていました。彼にとって唯一の希望は、父親が遺した壊れた「機械人形」を修理し、動かすことでした。

 ヒューゴは修理の部品を調達するため、駅にあるおもちゃ屋で万引きを繰り返していましたが、ある日、店の主人である厳格な老人ジョルジュに捕まってしまいます。

 (突然ですが-注:山本)おもちゃ屋でジョルジュの養女イザベルと仲良くなったヒューゴは、彼女が首から下げているハート型の鍵を見せてもらいます。その鍵こそが、機械人形の最後のパーツでした。

 鍵を使って人形を動かすと、人形は一枚の絵を描き出します。それは、ある映画(映画ファンなら誰でも知っている有名な映画-注:山本)のワンシーンを描いたものでした。ヒューゴとイザベルは人形の謎を追い、やがてジョルジュの過去にたどり着きます。

 老人ジョルジュの正体は、かつて数々の幻想的な映画を生み出し、「映画の父」として知られる実在の映画監督ジョルジュ・メリエスでした(この人形も、もともと手品師であったメリエスが作った人形でした-注:山本)。戦争によって夢を諦め、映画業界から姿を消していたメリエスでしたが、ヒューゴが持っていた機械人形や、子供たちの純粋な情熱に触れることで、再び自身の過去と向き合い、失われたフィルムや情熱を取り戻していく感動の物語です。(だとさ-注:山本)

 映画を見る見方はいろいろあると思いますね。いいから物語の流れを追う見方、前評判などを意識して映画を理解しようとする見方、芸術作品の見方は、自由です。

 でも、この映画の鍵を握るのは、「回転」なんですね(そこに気づかないと、なんであんなにたくさんの賞を取ったのかも分からないと思いますね)。「回転」ということを意識してこの作品と接すると、初っ端からスコセッシが「回転」にこだわっていることが分かります。魔の抜けた映画批評家は、気づいていないようですが、この「回転」を意識して鑑賞すると、この人間が見つけた「回転」運動の凄さが、さまざまな形で見せつけられます。

 まずは、環状交差点のパリの夜景が映し出されるし、常に絡むのが時計。それに螺旋階段や螺旋状の滑り台、人形を動かす回転運動。「回転」がテーマではないんですが、通底音として、回転とその運動がこの作品を支えているんです。その軸のひとつが時計=時です。そして、回転する映写機とその仕組みを巧みに利用したメリエスのマジックなんです。それはあの人形にも通づる世界を支配しているひとつの動きなんです。

 もちろん、『Hugo』には、戦争とその影や人と人との情愛などがいろいろな形で、味付けしていますが、そこにはやはり通低音として「回転」が蠢いているように思われます。

 映画を見ることは自由です。でも、騙されたと思って、「回転」を意識して、この映画に迫ってみてほしいですね。世界が開かれるかもしれないから。

 当時の最新の技術を使って、3Dのデジタル技術で、映画の黎明期、回転させるカメラ、映写機という新世界をテーマにした映画を生み出すなんて、やはり、スコセッシはすごい。

 翻って考えてみると、世界でも肉体でも、みんな分子でできているらしいですよ。その中の原子には原子核という何かがあり、電子と命名された何かが回転運動をしているらしいですよ。そのように学校では習いましたよね、訳もわからずに。

 となると、いろいろなものみんな回転しているわけですよね。その回転をどのように捉え、どのように使うのかが、ひとつの文化の現れ方なんでしょうね。

 例えば、ネジ。元々の構造はアルキメデスが見つけたものらしいですが、ギリシャでは、水などを汲み上げるためにその構造が使われたみたい。それが十五世紀あたりに接着の構造に変身し、今日に至っているんだって。

 スタンリー・キューブリックに言わせれば、人類は、モノリスの啓示によって、言葉と道具を手に入れたわけですが、ネジの構造の発見(アルキメデス)もネジの発見(誰だか不明)も何者かの掲示によって、人類は手に入れたのかもね。換気扇や、プロペラなんかもね。

 本当は、そんなことどうでもよくて、ちょっと長かったけれども、今まではまくら。

 電動ろくろの話です。

 回転体(土)と回転体の軸、自らの体幹と腕・手・指、さらには足腰が一体化した時の面白さ。それはあるよね。そこからずれずに、寸分狂わず作陶する心地よさ。それはとても楽しいし、自分がどこかに行っちゃって、無我夢中。それも完璧に無我になっちゃって、まるで世界と一体化しているような感覚。結構、いいよね。

 クオリティはともかく、この回転運動の快感を覚え、知ってしまった後、この回転点運動にハマっての自己満足感。そこが到達点である方もいるでしょうね。面白いし、人様に自慢できるからね。

 さらにこの回転運動のしもべとして、新たな造形の可能性を追求する方もいるでしょう。それはそれで、素晴らしい仕草だものね。だって、そこからでしか捉えられない世界もあるよね、きっと。それはそれでありだと思う。まるで、ヴェネチアングラスのようにね。

 ヴェネチアングラスは知っているよね。技巧の塊のようなガラス作品。なぜあんな作品が生まれたのか、ちょっと、説明しよう。

 ヴェネチアでは、ガラスの材料を産出できなかった。だから、ヴェネチアのテクニックが外部に漏れると、すぐ真似をするところが出てくるのは困りものですよね。そこでヴェネチア共和国は、職人たちを家族もろとも、ムラーノ島に幽閉しちゃったんです。狭い島にたくさんの職人を幽閉し、競い合わせたんですね。そして、素晴らしい職人たちは優遇されたんです。そこで、益々優れた作品が誕生したという次第。ムラーノ島での職人たちは、身柄を拘束され保護され、さらに門外不出の技に拘束され保護されたんです。どこかローマ帝国の奴隷制と似ているけれども、そんなものなのかもね。

 回転運動のその先に何がそびえているのか。やってみないと分からないけれども、新しい今まで感じたこともない世界が待ち受けているかもしれないよね。さらに、その回転運動から逸脱した回転運動というのもあるかもしれない。そこに向かっていくのも面白そう。

 この回転運動への挑戦をそろそろやってみてもいいかな。脱回転運動か超回転運動かは分からないけれども、回転運動の自己満足に留まるつもりはないな。

 ではどうすればいいのか。そんな答えは持っていないな。成り行きが道を見つけてくれるんだろうな。

 突然ですが、かつて親鸞という偉大なる和尚がいました。ある日、彼は熱病に侵され、なかなか回復しません。それは、仏への信心が足りないからだと思い、懸命に念仏を唱えました。しかし、治りません。その時ふと、親鸞は、悟りました。信心によって、救われるのなら、それは自分の信心の力によってであって、仏の力ではない。自分は、仏に絶対帰依し、身を委ねているはずなのに、自分の力でなんとかしようとしている。仏様ごめんなさい。あなたの「願」(仏はすべての衆生を救い、極楽浄土に導くという決意)を疑っていたんですね。

 ということで、他力本願の境地に辿り着いたんですよ。

 いかに電動ろくろの快感を超えて作品を生み出せるのか、という願いは、どこか親鸞の考えが参考になる気がする。親鸞の思想性に繋がっているのかもしれない。

 ろくろに身を任せるということですかね。

 なんだかねえ。世界を顕在化するって難しいよねえ。これが世界というものかな。

    異様に暑い 二〇二六年七月十六日