戯言・箴言 第二章 その五の二
ルーシー・リーとは、何者か
ルーシー・リーについて、なかなかまとまった言葉を発することができなかったんですね。無責任のようですが、自分でもわからないんです。喉に引っかかった小骨とは、ルーシーのことをいうのでしょうね。気にはなりますが、だからどうしたの、という存在なのです。造形的思想の位置としては、十分理解できます。近代丸出しですから。そこから生まれたいくつかの作品のクオリティも十分感受できます。鋭い感性は、敬服します。でも、常に付きまとうのは、「だからどうしたの」なのです。不思議な作品の数々ですね。
これから連なる言説は、はっきりいって、完全な戯言。文献を組織的に調べてみたわけでもなければ、現地に行って、その空気に触れたわけでもありません。直感による戯言であり、その直感がどこから訪れたのかも定かではありません。空想的な戯言の綴織とでも言っておきましょうか。だから真面目に読んでも、時間の無駄使いかもしれないし、ひょっとしたら、読み手の感性を刺激して、慟哭を導き出すかもしれませんよ。でも、覚悟して眼を通すほどでもないでしょう。まあ、ご自由に。
ルーシー・リーを知ったのは、一九八九年、草月会館での個展。一九六四年に初めて日本で紹介されてから、だいぶ経っています。
そもそもぼくは、焼きものには、とことん興味がなく、古臭い、凝り固まった制度のもとで、展開している世界と決めつけていました。走泥社のことは知っていましたが、土という素材にこだわることが、よく分からなかったんです。
素材や技法にこだわることが、造形の自由な地平を切り開くひとつの方法であるということに気づいたのは、相当だいぶ後です。その頃、ルーシーと出会ったということですね。
だから、ルーシーが捉えた世界の「美」の顕在化が作品であって、素材や技法によって、自らの造形性を深化させていったわけではないルーシーには、やっぱり、興味が湧かなかったのです。
それはともかく、興味など全くなかったぼくが、ルーシーの作品を初めて眼にした時、確かに輝きは感じましたが、だからどうしたという感じ。でも、印象的な展覧会であることは確かでした。その後、幾度となく、ルーシーの作品と出会ったし、真似して、ボウルを作ってみたこともあります。
魅力を感じますが、だからどうしたの、でも、喉にひっかかるアーティストとして、無視はできなかったですね。
ハンス・コパーの作品に出会ったのは、二〇一〇年の個展の時です。ヨーロッパにもこんなに凄い奴がいるんだというのが、第一印象でした。やるなあと同時に、ハンスは本当にルーシーの弟子かと思いましたね。作品が放つ造形性があまりにもかけ離れていたからです。造形の歴史を背負った造形の本質を感じました。その時も、ルーシーの作品は、やっぱり、ただのうつわだよな、って感じでした。ハンスの作品には、圧倒する造形性を放っているのです。
そんなこんなで、そしてまた、ルーシーの個展が開催されているのもあって、ちょっとルーシーの世界を覗き込んでみようと思った次第。日本人は、心底、ルーシーが好きですね。
「作品があって、余計なことを考えたりしないで、素直に作品の素晴らしさを感受すればいいではないか。」とおふざけな姿勢をばら撒く輩はたくさんいるでしょうが、そういった輩は、作品をほとんど否定しません。無視か、肯定かです。否定するには、知識とエネルギーがいるから。そういった輩のことは無視して。冷静に作品と対峙しようと思っている方に聞きたいのです。
あなたは、世紀末のウィーンについて何を知っているというのでしょう、ユダヤ人とりわけオーストリアのユダヤ人について何を知っているというのでしょう、オーストリアとイギリスの文化的異差について何を知っているというのでしょう、ナチの暴虐について何を知っているというのでしょう。ルーシーを取り巻くさまざまな状況を捉えて、初めて彼女の作業の凄さが見えてくるのではないでしょうか。そうは思いませんか。
ここでいうあなたとはぼくのことなのですがね。
結論を先に言っておきます。「ルーシーの造形に関わる感性と思想は、ウィーンを離れるまでにすでに出来上がっていた」というのが僕の捉え方です。
イギリスに亡命してから、ハンス・コパーの影響でミケーネやギリシャの造形に興味を示しますが、そもそも相当量の古代文明の造形物には、子供の頃から、接していたんです。
中国の宋の頃の焼きものも、バーナード・リーチに紹介される前から接していたはずです。
イギリスに渡ってからも、ルーシーはウィーンにいた頃と何ら変わることなく、ろくろを回し、釉薬の研究し、作品を作っていたのです。ただただひたすら、ルーシーはルーシーの美の王国と対峙していたんです。
ここまでは、まくらで、ここからが、本論です。時代年代順にとらえてみましょう。
ルーシーのお父ちゃんは、ベンジャミン・ゴンベルツ。ルーシーがロンドンに亡命する三年前(一九三五年)に亡くなっています。
当時、ウィーンのトップレベルのユダヤ人の資産家、ゴンベルツ家のおぼっちゃまで、著名な耳鼻科医です。フロイトとは大の仲良し。ゴンペルツ家といったら、十七世紀以降、ドイツやオーストリアで学者や実業家を数多く輩出したとんでもないユダヤ系の名門一族。オーストリアの知性を担っていた一族です。ルーシーの本名は、ルーシー・マリー・ゴンペルツです。
一方、お母ちゃんは、ギーゼラ・ゴンペルツ。アイゼンシュタットで大規模なワイナリーを営むユダヤ系豪商ヴォルフ家のお嬢さまです。叔父のサンダー・ヴォルフは著名な美術コレクターです。ルーシーが芸術に触れる大きなきっかけを作りました。
このお母ちゃんはルーシーがロンドンに亡命する前年(一九三七年)に亡くなっています。
このおぼっちゃまとお嬢様が結婚して、一九〇二年に生まれたお姫様が、ルーシーです。この時点で、もうルーシーは普通の方ではないのです。
オーストリア帝国=ハプスブルク家は市民権を与えたくらいユダヤ人に寛容で、だからウィーンには数多くのユダヤ人が集まり、文化的にも経済的にも栄えた都市です。質的に言って、当時ナンバーワンの都市です。
十八世紀には、あのマリア・テレジアが統治した国ですよ。マリア・テレジアと言ったら、アウガルテンを皇室直属の磁器窯にしつらえた方です。
こんなゴンペルツ家の日々を想像してみてください。と言っても、中森明菜が復活したって大騒ぎしている方々には、想像もできないと思いますが、ぼくもそのひとりなので、無理やり想像してみます。
お父ちゃんは、朝起きて、ゆっくりと新聞なんかを読んだりして(当時、ウィーンでは知識人の間では新聞が流行っていた)、ゆっくりと、アウガルテンのコーヒーカップでコーヒーを味わい、アウガルテンの皿に盛られたトーストなんかを口にして、おもむろに身支度をして、迎えに来た馬車に乗って、自分の医院へ向かいます。ゆったりとした時が流れています。
お母ちゃんは、新しく届けられた花を装飾豊かな花瓶に飾りながら、朝日を楽しんでいます。メイドに起こされ、顔を洗って可愛いドレスに着替えたルーシーや二人の兄と一緒に、トーストとミルクのブレックファーストを頂いています。ゆったりとした時が流れています。兄たちは迎えに来た馬車に乗って、学校に行きます。お母ちゃんとルーシーはゆっくりと身支度をし、今日は図書館と美術館に行きます。帰りがけには、ケーキ屋に寄って、アップルパイを買って、学校から戻ってきている兄たちとおやつを楽しみます。ゆったりとした時が流れています。
そんなウィーンファンクル通りのゴンペルツ家は、お父ちゃんが援助している、ウィーン工房の家具や調度に囲まれ、暖炉の前では、可愛いルーシーが、絵本を読んでいる。
そんなユダヤ人の家庭ですよ。こちらの想像力が、ついていけませんね、ホント。
これから述べるのはぼくの勝手な解釈です。僕の勝手なユダヤ人像です。ユダヤ人とは、母親がユダヤ人である者、または正式な手続きでユダヤ教に改宗した者とされていますが、本人がどうやら私はユダヤ人といえばユダヤ人で、ユダヤ人という民族・文化的集団の一員という意識があれば、ユダヤ人なのでしょう。ちょっと違うかな。
そのユダヤ人およびユダヤ人のコミュニティの大事な基本的モラルは、二つあると勝手に解釈しています。まず、金儲けをしましょう。そしてそれに見合った教養を身につけましょう。困っている人を助けましょう。豊かな日々とは、豊かな教養に包まれた日々です。そのためにはお金が必要です。でもそれを最終目標してはいけません。コミュニティの助け合いを大事にしましょう。
世紀末ウィーンがあれだけ豊穣だったのは、ユダヤ人のそういった心情に支えられながら、みんなで豊かになったからでしょう。いわゆるパトロンの力は凄かったと思います。
ベンジャミン・ゴンベルツも単なる金持ちの医者ではなく、ヨーゼフ・ホフマンなどを支援していたと聞いています。
ルーシーの最初の刺激は、こうした環境の日常だったと思われます。
さらに叔父のサンダー・ヴォルフの蒐集品やボンベイなどへの旅行も刺激的だったと思います。ルーシーの感性を育てたのは、まずは、身内でした。
十二歳の時(一九〇四年)、第一次世界大戦が始まり、十八歳の時(一九一八年)戦争は終わり、ハプスブルク帝国は崩壊し、オーストリア連邦共和国が生まれます。ルーシーの思春期は激動ですね。この戦争のゴタゴタが終わり、そしてルーシー、二十歳の時にウィーン工業美術学校に入ります。これがルーシーの感性を育てた二つ目の出来事です。
絵画の勉強でもするかと入った学校ですが、そこで眼にしたロクロに魅せられ、ミヒャエル・ポヴォルニーという先生のもとで、釉薬の研究などを行ったということです。このミヒャエル・ポヴォルニーという方は全く知りません。本人は大した作家ではなかったようですが、学生にいろいろな動向を教えたり、いろいろな美術館に連れて行ったりして、刺激的な活動をしていたらしいです。
実は彼はどうでもよくって、その学校には、ヨーゼフ・ホフマンがいました。ウィーン分離派の中心人物のひとりでもある建築家です。お父ちゃんが援助していたヨーゼフ・ホフマンです。若きルーシーの才能を見つけた人物です。
建築家とは、建築設計士のことであり、自分では家など作りません。作るのは、大工や職人です。これがポイントの一つ。
もう一つのポイントは、ウィーン工房。ヨーゼフ・ホフマンは、ウィーン応用美術学校で当時高い評価を得ていた建築家、オーットー・ワーグナーに師事します。ワーグナーは、クリムトと共にバリバリのウィーン分離派で、建築を総合芸術と捉えていました。その影響もあって、ヨーゼフ・ホフマンは、ウィーン工房を設立します。
これはドイツ工作連盟(後のバウハウスの流れ)やイギリスのアーツアンドクラフツなどの運動とも関連してくるので、かいつまんで説明します(美大のデザイン科にいれば、否が応でも学習させられることなんですがね)。
産業革命により、大量生産技術が発達します。そうすると技を持った職人は仕事を失い、粗悪品は世の中に出回る。それは庶民の生活の質を落とすことになります。職人の作る質の高い生活良品を庶民の手元に行き届くためには、職人の生活を保障しながら、安価な生活良品を生み出す実験。それが、ウィリアム・モリスなどが提唱したアーツアンドクラフツ運動です。結局は夢物語で失敗したけれどもね。
その影響下で組織されたのが、ドイツ工作連盟。ここでは、アーツアンドクラフツとは真逆で、量産でも質の良い生活良品を生み出すためにはという発想。中心人物は、プロイセン政府の官僚ヘルマン・ムテジウスや、のちにバウハウスの初代校長のヴァルター・グロピウスなどなど。
さらにその影響下で組織されたのが、ヨーゼフ・ホフマンたちのオーストリア工作連盟。言って仕舞えば、ウィーン工房はその実働部隊。背景にアウガルテンなどの工房があります。例えば、ヨーゼフ・ホフマンはモダンデザインの家具丁度までデザイします。でも、自分では作れません。どうしても一流の職人が必要です。そのために閉鎖に追い込まれたアウガルテンを復活させます。ウィリアム・モリスやドイツ工作連盟のように庶民のためのデザインではなかったのです。でも、精巧な職人技すなわち、ハプスブルクの技巧に裏打ちされたモダンデザインをもとめたわけです。
そのような中で、ますます感性を研ぎ澄まし、技を磨き上げてきたルーシーは、学生の頃から注目されたのです。
ルーシーは学校を卒業後、結婚をしますが、ますますその評価は上がってきます。しかし、ナチが台頭し、両親も死別し、財産も没収され、ロンドンに亡命します。そこで夫のハンス・リーと生活上の意見が合わず、ルーシーはロンドンに残り、ハンスは亡命先としてアメリカを選びます。
その後のことは、この言説では必要がないので、割愛しますが、またまた想像してみてください。
当代、超一流の資産と知性に恵まれ、その才能も認められてきた若きルーシー。生まれ育ったウィーンを後にロンドンに亡命(以後一度もウィーンには行かれなかったそうです)。夫とも別れ、ハイドパークの北側のアルビオン・ミューズに小さな家を見つけ、工房兼自宅として以後、活動の拠点としています。写真を見る限り、本当に小さいです。
そこでボタンなどを作り・・・・。キリがないのでやめます。
ルーシー・リーとは、幼い頃からのウィーンでの生活や文化的状況の中で見出した「美」を小さなうつわの中に追い求めた、極めて鋭い感性を持ち続けたモダニスト=(モダニズム(近代的自我の確立に人間の解放の根本的契機を見出そうとする考え)を軸に行動をとった方々、のひとり。これがルーシーの正体と言えましょう。
これでしばらくは、ルーシー・リーに悩まなくても済みそうです。ルーシーについて、当面何も語りたくないですね。疲れましたが、本当は、何も分かっていないのかもしれません。
二〇二六年八月六日