戯言・箴言 第二章 番外
コラム ひとこと 最後のひと押し
人間関係や日常生活それにお仕事、いろいろな領野によって、その様相は異なると思うが、文芸作品でも、美術作品でも、工芸作品でも、映画でも、作曲などでも、最後の一手間を入れるか入れないかで、その作品のクオリティは、かなり異なってくるだろう。
焼きものの話のつもりだが、このことは生き方にも繋がってくる話だなと思いつつ、語っていこう。
作品のクオリティを決めるのは、最後の一手間にあると思う。その一手間で、バシッと変貌することもあれば、むしろ、その一手間を隠すことによって、より豊潤さを醸し出すこともある。
趣味の陶芸を見ていると、最後の一手間を入れればいいのに、という作品に出会うのは日常茶飯事だ。
ただし、その一手間を入れない理由は、二つある。
一つは、手抜き。これはいただけない。サボってまで作るのなら、はじめから作らなければ良い。憶測だが、そういった輩は、いろいろな事柄に対しても、サボって、最後の一手間をスルーする。でも、結構それは、バレバレで、周りの人々に見透かされているんじゃないかな。
もうひとつは、気が付かない。これもいただけない。せっかく、趣味で焼き物を作っているんだから、そのくらい、見抜けよ、って感じ。
焼きものを作っている時でも、削っている時でも、どこで終わらせたらいいのかわからないということはよく聞くが、そこがその人も感性の見せどころ。今、作っているあるいは削っている作品を自分のものではなく、他の人の作品と思えばいい。他者の視線で、自らの作品を眺めれば、意外とやめ時に気づきやすい。
問題なのは、意図的に「最後の一手間を抜く」というかなり高度な技である。感性からの指令である。「そこでとどめよ!」
僕の経験からすれば、それは絵画の世界でも言える。最後の一筆を入れるか、やめにしておくか。でも、画力のない人間は、ついつい描いてしまうのだ。
かつて高松次郎が、等伯の『松林図』に対して、もう一筆が足りないと批評したが、ぼくはむしろ、その最後の一筆を入れなかった等伯の凄さに感嘆したものだ。人によって見え方は違うものだ。
「最後の一手間を抜く」境地に立ちたければ、いいから手間を入れる余地を残さないことだ。それを意識すれば、「もう、何もできない」ところまでたどり着けるだろう。そこで、最後の一手間の有効性に巡り合えるだろう。それをする前と後の話。「やらなきゃあよかった」という感性の呟きが聞けるまで、やり切る。とても大事だと思う。
(「最後の一言が余計」ということはしばしば。人と人との関係の中では、最後の一言を言わない方がむしろ、有効というか力を持つ場合もあるよね。
国会の答弁で、高市首相が、本当のことには違いないが、それ言っちゃダメということを公の場で口にしちゃったばっかりに中国との関係がめちゃくちゃになっちゃったというケースもある。)
どんなシーンでも、焼きものを作る時は、徹頭徹尾、手抜きを放棄した方がいいだろう。例えば、「手を抜いて作られた作品」には、決して「手作りの良さ」という称号は与えられない。
上手い下手ではなく、自分の陶芸作品の世界を確立するための第一歩は、徹頭徹尾、手抜きを放棄することだろう。まあ、いいやという作り方からは、まあいい作品しか生まれない。ただし、趣味の陶芸では、まあ、いいやはまあいいのであるけれどもね。
だから僕の言っていることは、趣味の陶芸の域を超えていることのように思われるかもしれない。しかし、趣味というものが、その方の生き様、生き方、感じ方の反映としてみれば、趣味は侮れないことなのだ。マズローの自己実現論からしても、趣味は決定的な生き方のエレメントなのだ。
せっかくの趣味に手を抜くいわれはない。
楽しもう、焼き物作りを!
二〇二六年八月十三日