戯言・箴言 第二章 その二

戯言・箴言 第二章 その二 なんだかなあ

 個展が終わって、さて、という時に、頭の中は、たくさんの渦が巻いて、大混乱。地球上にたくさんの台風が現れて、どこにも高気圧がないといった状態。

 言葉を変えれば、脳みそが、自分自身の想像力についていけない状態。

 このままでは、バラついた想像力が何をやらかすかわからないので、ゆっくりと整理して筋道を探そうと思い耽る、今日この頃。

 今回の作品の出発点は、メディウムとその考察であった。それがなぜだか一挙に箱を作ることとなった。もちろん、その間の経緯は三次元的な迷路の中での探求だったが、まあ、あの作品に落ち着いたというわけだ。

 そこから出てきたのが「ボリュームとマッス」という問題。これはまあ、長年のアポリアだから落ち着いて対処できるが、「平面と直角」という問題がちょっと厄介だ。なぜならば、あの作品のかなりの数の反応が「縄文」だったからだ。「縄文」という言葉から思い浮かべることと言ったら、人それぞれだろうが、いわゆる先史時代というのは、その研究者を筆頭に、相当無責任に人の想像力を刺激するものだ。

 そこで、脳みそは混乱しているのだが、脳みその混乱に逃げるという手もあるのだろうが、流石にそれは拒否したい。最近よく聞く「歳はとりたくないものだ」という常套句を引用した嘆き。相当気分が悪い。人間は否、動物だって、生まれたからには、死ぬまで歳はとる。本当に歳をとりたくなければ、死ねばいい。

 要するに、現在を今までの自らの生の行き着いた果てとして捉えるのか、これからの生の出発点として捉えるかの違いだろう。

 人の生の終着点は死だろう。見方によっては、それはひとつの楽しみだろうし、喜びだろう。きっと、その時には、そういった意識からも解放されているのだろうけれども。でも、なんで他人の死はあんなにも悲しいのだろう。不思議だ。

 ということとは関係なく、あるエッセイを紹介したいと思う。

 なぜかというと、「人生って、思い込みで漂っているよな。そこが面白いのだけれどもね。思い込みと思い込みのぶつかり合い、愉快だね。と、思ったからだ。」

 これから少しづつ、動き出すだろう精神に笑いと励ましを施してくれたエッセイである。書く方も書く方だが、読む方も読む方だ、という楽しいエッセイである。

 勝手な引用で朝日新聞からケチをつけられるかもしれないが、新聞の宣伝にもなるだろうから、勘弁ね!

      朝日新聞 二〇二六年七月八日

(想 飛行機雲のみえる日)大切な「どちらでもいいこと」 作家・川上弘美

 ここで問題です。

 あなたは三十代、女性。駅のすぐ近くにある小さな会社に勤めています。あなたは猫が好きです。ある日、震えているひもじそうな様子の子猫を、職場のすぐ近くで仕事帰りに見つけます。子猫の親をさがしますが、見当たりません。さて、あなたはこれから、どうしますか?

 自分ならば、簡単に正解できると思っていた。なぜならこの女性は、少し前に書いたわたしの小説の登場人物だからである。女性はすぐ目の前のコンビニに走り、牛乳とかつぶしを買い、すぐさま子猫のところに引き返してそっと抱きあげ、会社に戻ることとなる。本当のところ女性は子猫を家に連れて帰りたかったのだが、電車に乗らねばならないことと、マンションがペット禁止なことを鑑み、ひとまず今夜は会社に子猫を連れて帰ったというわけだ。

 ここまでの女性の行動に、何か問題があるとは、連載中にはひとかけらも想像していなかった。

     *

 ところが。この小説を単行本にまとめるにあたり、文章や内容に矛盾や間違いがないかどうかチェックをしてくれる、世にもありがたい「校閲」という過程を通ってきた結果をみると、なんとこの時の女性の行動には、大いなる問題があることが判明したのである! どのくらい問題かというと、ふだんの指摘箇所は数文字くらいに収める校閲の人の手書き文字が、ぎっしりと十四行にもわたって続いているではないか。

 内容は、以下の通り。子猫は牛乳を飲むことを推奨されていない。かつぶしも同様。コンビニでは子猫用の餌とミルクを売っているとネットにはあるので、猫好きの若い女性ならばそれを買わないのは不自然。

 頭を抱えた。昭和の古臭い常識を振り回すな!と、一喝された心地の作者。青ざめて、すぐにネットを調べた。校閲の人の指摘と、まったく同じことが書いてある。かつぶしも牛乳も、だめなんだ……。翌日になれば女性は子猫を獣医さんに連れてゆき、子猫の飼育指導なども受けたという陰設定の心づもりの作者、頭の中で(一晩くらい応急措置的に、かつぶしと牛乳、やってもいいんじゃないのかい?)と、会ったことのないそしてこれからもおそらく会うことのない校閲の人に、言い返す。

 さてここでまた、問題です。作者は、校閲の人の指摘に素直に従ったでしょうか、それとも聞く耳持たずだったでしょうか?

 ちょうどその前の晩に見た刑事ドラマで、「現場百遍」すなわち机上の空論より現場に足を運ぶべし、という言葉を聞いたばかりだった作者、早速、駅近くのコンビニの調査を開始する。最寄り駅の半径百メートル以内には、コンビニが五軒。調査結果。子猫用ミルクが置いてあった店、ゼロ。子猫用フードも、ゼロ。お店の人にも聞いてみる。駅周辺の店は面積が限られるのでたいがい置いていませんが、住宅街の店には置いてあるところも、とのこと。

 コンビニには必ず子猫フードがある、と指摘した校閲の人に対して、大人げなく「どんなもんだ」と勝ち誇る作者。子猫用食料は買えないんですよ、駅近の店では。でも牛乳ならあるでしょ。かつぶしもほら……と、勝ち誇り続けようとしたら、なんと! かつぶしが、ない。いくら探しても、ない。念のためもう一度五軒全部見てまわったが、すべてのコンビニに、かつぶしの姿ナシ。

     *

 「現場百遍」は、偉大だった。校閲の人も作者も、結局どちらもダメだったわけだ。ネットの情報を鵜呑(うの)みにするのも、かつぶしはどこにでも売っているのが「普通」と決めてかかるのも。

 最終的に作者がどんなふうに書いたか興味のある方は、最新の拙著を読んで下さればありがたいのだが、実のところ小説の中の子猫が何を食べようが、なべての人にとってはどちらでもいいこと。けれどそのどちらでもいいことは、架空の世界を構築する、小さいけれど大切なピースであり、おろそかにすれば、そこから架空の世界は崩れはじめる。そういえば、現実の世界においても、小さくてどちらでもいいように見えることこそが、実は大切なピースなのかもしれない、と、痛切に感じる今日このごろでありますし。

           二〇二六年七月九日