ひとりごと

触ると触れる

5月27日朝日新聞論壇時評において東京大学大学院教授・林香里が「コロナ禍と五輪 傷にふれて、語り継げるか」という論考を寄稿している。

 東京五輪・パラリンピックをひとつの傷として捉え、ワシントンDCの中心部にあるベトナム戦没者記念碑や撤回された「津久井やまゆり園」での東京パラリンピックの聖火の採火、遺骨混じりの土砂で埋め立てられている辺野古、名古屋入管に収容中に死亡したスリランカ女性などを引き合いに出し、いかに傷に対峙するかを論じている。

そして最後に美学者の伊藤亜紗を引き合いに出し、著書『手の倫理』の冒頭で、傷口に「さわる」と傷口に「ふれる」という二つの言葉から、回復のあり方の問題提起を紹介している。

 傷口に「さわる」と言われると、痛くて反射的に防御したくなるけれども、傷口に「ふれる」となると、相手の痛みへの配慮が含まれていて、ふれられる人も「痛いかもしれないけど、ちょっと我慢してみようかなという気になる」と。

 「さわる」と「ふれる」。

 傷は痛い。さわられても、ふれられても。けれども、「ふれる」と言ったときには、どこか、内側へと向かう信頼や、双方に共振するいたわりへの予感が呼び出され、力が蓄えられる。

伊藤が解説する日本語の言葉の妙から、少しだけ、未来へと希望をつなぐ、と閉じている。

 傷口ではないが、私たちが土と向き合う時、それはさわっているという感覚なのか、ふれているという感覚なのかを問われれば、ぼくは完璧にふれているという感覚を持つ。

土は単なる素材ではなく、ぼくと土は対等でその関係性の中で作陶という仕草が発生する。ぼくは意思を持っている。土も意思を持っている。ぼくは土の意思を踏まえてぼくの意思を持っているし、土はぼくの意思を踏まえて土の意思を持っている。そこではじめて土との対話が成立し、作品が生み出される。多分、作陶とはそういうものだ。土は素材であるという捉え方をぼくは拒絶する。

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