ひとりごと

第十回『卓』展を終えて

 十回目の『卓』がようやく終わった。今年はウイルスのおかげで変則的だったが、ビエンナーレ形式で開催していたので、二十年の月日が経ったということである。
 そこで過去の『卓』も踏まえて、今回の『卓』において顕在化された横濱陶藝倶樂部が抱え持ついくつかの問題点を探っていこうと思う。

●横濱陶藝倶樂部
 横濱陶藝倶樂部は、陶芸に興味を持つ市民が集い、自由に活動する組織である。主宰者である私の立場は、会員の皆さんとはちょっと異なるが、趣味人という立ち位置は会員の皆さんと同じである。全ての会員は、趣味人としての陶芸愛好家ということだ。
 ところで、陶芸作品を生み出す人間は三通りに分けられる。
 まず、陶芸家と言われる方々。この陶芸家は、近代的な個の意識に基づいて、制作し、発表する。陶芸家の中でもさらに二通りに分類される。ひとつは、芸術家のように自分なりのクリエイティビティによって作品を生み出す一匹狼である。
 もうひとつの陶芸家は、窯元の主宰者であり、陶芸家である前に窯元の領袖である。〇〇焼として作品を世に出す場合だけではなく、個としても世に問う。半分は職人の頭領である。この方々が日本の陶芸文化を支えてきた。
 そこで働く職人という世界もある。職人は、自分の作品としてではなく、商品として陶磁器を生み出す。労働の対価として賃金を得る。自分の名前はもちろんそこには存在しない。窯元の意向や戦略や評判に基づいて、指示に従って作陶する。ある意味では、一番純粋に作陶の日々を送っている存在である。
 第三のありようが、趣味人として作品を生み出す横濱陶藝倶樂部の会員のような存在である。
 趣味人は、制作する意識のありようとして最も自由である。作りたいものを作ればいいし、作ることに飽きたら、やめてしまえばいい。
●自由
 趣味人は自由なのだが、ここが一番の壁になる。自由に作るといっても、もの作りは、制約だらけである。
 技法・技術・技倆に限って考えてみよう。
 自由にさまざまな技法を駆使して作るためには、その技法を習得しなければならない。完璧に習得することなど論理的にいって不可能であるが、技法を修練することによって技術を身につけ、技倆を持ち上げることはできる。その時その時の技術・技倆に従って自由に制作することはできる。作りたいものを作れるように技を磨く。この際、個々の想いが生み出す、作りたいものへの欲求が、後押しをし、技倆が向上する。技術が伴わないで今まで作ることができなかったうつわが苦労して作れるようになる。このレベルでの壁を乗り越え、自由を得たことになる。これは純粋にひとつの喜びである。
 一方、技法から自由に作るという選択肢もある。作りたいもので作れるものを作る。この自由のありようは、相当、際どい。
 技法を身につける、例えば、電動ロクロでの作陶を身につけるための努力などは回避する。そこまでして作品を生み出す気にはなれないから、手持ちの技術の範囲で作る。
 逆に、電動ロクロでは作るが、手びねりやたたらでは作らない。なぜなら、面白くないから。この理屈は素人なら通じる。そのおかげで、作品を生み出す想像力=技倆に拡がりが持てなくても構わない。
 これが趣味人の強みである。
 陶芸家、職人、趣味人の中では趣味人ほど自由な立ち位置はない。何をやってもいいのだが、何もやらなくてもいいのだ。ただ、私はこういった立ち位置には立たない。自由とは究極的には「自由から自由になる」ことである。それは死を意味する。生きている以上、可能な限り、自由に自由でありたいし、作陶に関しても拡がりを持った可能性に身を委ねたい。
 それは横濱陶藝倶樂部のありようにも通じる。みんな本当に上手くなりたいし、いろいろなものを作りたいのだ。作るための技術は指先や身体が持つ感覚に委ねるしかないが、そこから派生する感性によって育まれる技倆が、作品の質を導く。そのひとつの試みが『卓』である。
●結界
 世界は結界で覆われている。私たちの生活世界も結界で覆われている。容器も含めて、うつわはひとつの結界でなくては用をなさない。機能は異なるが、机「卓」も結界である。
 『卓』も同様で、うつわという結界が最初の単位であるが、そのうつわで構成されている「卓」という結界がある。さらにその「卓」群によって『卓』が構成され、第一展示室という結界を構成し、県民ホールという結界に拡がっていく。
 この構造の中で核となるのは「卓」である。個々の作品ではない。個々の作品によって構成されたそれぞれの「卓」と「卓」たちによって構成された『卓』(横濱陶藝倶樂部)が核となる構造を持っている。基本は作品だが、作品と作品に発生する関係性が主役となる。そのフィールドが「卓」である。
 宇宙になぞってみれば、さまざまな要素(うつわ)によって構成されている惑星(「卓」)によってさらに構成されている太陽系(『卓』)を提示する試みと言っていい。となれば、さしずめ、陶芸の世界は、銀河であり、造形の世界が大宇宙ということになろう。
●『卓』
 『卓』は第一回展から明確なコンセプトに基づいて展開されてきた。
 各自の作品を基にしたテーブルコーディネートを展示すること。展示台としてテーブルを使用しないこと。
 このコンセプトはいまだに健在である。ただ、一部の会員にはなぜか理解されていないようなので、繰り返し解説する。
 私は今まで、生活の中でのひとつの情景を感じさせるような「卓」を演出していただきたいとリクエストしてきたつもりである。
 私たちは、日頃の活動の中で、うつわを作っている。その行為は、個と土によるコラボレーションであり、他者の入り込む余地はない。極めて私的な行為である。ただそこで生まれたうつわは、作られることによって完結するわけではない。芸術作品なら、他者の眼差しに晒されて完結(終着というわけではないが)する。うつわもまた他者の眼差しに晒されるが、そこでは終わらない。うつわの本質は基本的に用途にあるわけだから、生活空間の中に入り込み、使われることによって完結する。それらによって生み出される、生活空間の情景「卓」の集合体が『卓』である。ここでいう情景とは、生活の一場面であり、感覚とか感性だけではなく、生活空間に向けた感情によって成り立つ。だからそれは風景でもなければ光景でもなく、情景なのだ。だから、そこにはナラティブ(物語り)が生み出される。
 コーディネートされた「卓」にはナラティブがある。と同時にキャプション(解説)という言葉が、眼差しを向ける側への補完となる。だからコメント(見解)ではない。
 キャプションの存在は大きい。こちらの想像力を刺激し補完する。そこには、ベタな人間関係を前提にしている「卓」もあれば、具体的な人間は連想できないが、生活の香りを捉えることのできる「卓」もある。
 それぞれの「卓」には、さまざまな質を醸し出しながら、個々の作品を超えた情景がある。それは、木を通して森を見ているようなものだ。だから「卓」という森が構成されていなければ、木を見るしかない。ましてそこから展示会(横濱陶藝倶樂部)『卓』という森林は見えてこないだろう。
 「卓」として成立させようとしていない展示=机が単なる展示台であって、作品同士が関係性を持って構成されていない展示からは、個々のうつわ(木)は見えても「卓」(森)は見えない。そもそもないのだから。
 この『卓』のありようは横濱陶藝倶樂部の存立に深く関わっている。
 横濱陶藝倶樂部はその成り立ちからして、山本秀夫の陶芸教室ではないということが大前提である。会員は個々自立しており、山本はただ単にサポートしているに過ぎない。全ては会員それぞれが持つ姿勢に委ねられている。
 だから「卓」は自立しているし、共立する『卓』が可能となるのだ。
 主宰者としての私見を述べれば、趣味人の作品展としては、当代一級と自負している。それは展示形式を含めた企画そのもののレベルもさることながら、『卓』という姿勢にある。『卓』は職人はもとより陶芸家はこのようなコンセプトに手を染めない。『卓』は素人・趣味人陶芸ならではの、しみじみとしたありようである。この試み以上の素人・趣味人陶芸を見かけたら教えてほしい。

 少し時間をかけて、幹事会を中心に横濱陶藝倶樂部の方向性、『卓』のありようを整えていきたい。
 そこでのキーワードは、多様性と自由だろう。そしてそれを支えるのは、土と共に歩む造形への想いと生活空間への眼差しだろう。そこでの私たちの武器は感覚と感性と感情である。

 結果として、この小論は講評というより、私の想いを綴ったような論になってしまった。今までにもたびたび語ってきたことなので、古い会員は、いまさら、と思われるかもしれないが、横濱陶藝倶樂部の三十年近くの歴史を踏まえての私の現在の心境である。
 そこのところを汲み取っていただけたら幸いである。

 皆さんの忌憚のないご意見を伺たい。