ひとりごと

宗教の話その2

宗教の話その1とは、脈絡がないのだが、やきものを含めて、ぼくの造形及び造形に関する言説をほぼ支配しているのが、神である。
宗教とは何かを答えるのは至難であるが、神もまた然りである。また、これから語ることは、信心とか信仰と関係がない。アプリオリな思い込みといった方が相応しいかもしれない。
そもそも論を言ってもキリがないので、具体的な経験から話そう。
今までたくさんの美術作品を生み出してきたが、その全ては思いつきといっても過言ではない。自分の意思とかコンセプトとか思想とか体調などとは関係なく、作品のプランは、どこからともなく湧いてくる。閃くと言った方が近いかな。なんでそんなプランが頭に浮かぶのかは全くわからず、浮かんでくる。若い頃はよく車を運転している最中にそれが訪れるので、車の中には必ず、メモのためのクロッキーブックを置いていた。そしてそのプランに基づいて制作するわけだが、実際の作品になるまでは紆余曲折があるが、何故それを作るかといえば、誰も作らないからである。見てみたいのである。でも、出来上がってみても、親和性は全くない。自分の意思というより、何者かに押されて作っているのだから、常に距離がある。自分で作っておいて「ああ、こういうものなのか」と改めて観察してしまう。その作品を機会があって発表すると、思いがけないほどの評価を得ることもあるが、ダメ出しされることもある。まあ、人様の評価など本当はどうでもいいのだが、評価されるのとされないのとはその後の活動のフィールドが全く違う。美術作品は本質的な価値とは関係なく、価格がつく。売れるということである。このことはとても大事だ。自分の生み出したものにお金を出してくださる方や企業があることは、単純に嬉しいし、経済的にも助かる。
しかし、本当はぼくは何者かに誘導されて作品を生み出しているに過ぎないと覚醒する。自分の内面からほとばしる情熱によって制作し、作品を生み出す、なんてまっぴらごめんだ。自分自身と対峙し、自分自身を顕在化するなら、自分自身に向けて自己完結すればいい。他者の視線に晒す時はこんなもの作っちゃったんだけれどもどうお、てな感じ。
そのぼくを動かしている存在をとりあえず、神と呼んでいる。霊といってもいいかもしれないし、魂が相応しいのかもしれないし、この言葉の表記と意味を探るとキリがないので、やはり、神と呼んでおこう。
全ての営みに言えることだが、ここでは作陶に関して語ろう。
ぼくと土との関係。
ぼくにはぼくの神がまとわりついている。土という素材にもさまざまな道具にもそれぞれ神がまとわりついている。実際、作陶すると言うことはぼくの神がぼくを通して土の神に語りかけ、ぼくと土の共同作業として作品を生み出す。作陶という作業は、指先だけではなく、全身の感覚とどこかにある感性の溜まりによって行われる。感覚と感性によって自分という存在を超越して、神の意思に従って作品を生み出す。そんな作業だから、こちらの神の意思を探ることも大事だが、土の神の意思も汲み取らなくてはならない。そこには道具や更には時間や空間の神の意思も絡んでくる。
ぼくにとって陶芸の面白さはここにある。神との戯れに発生するダイナミズム。そこに自分はいるのだろうけれども、それを超越した仕草。なかなかうまくいかないけれどもね。
ぼくとお客さんとの関係。
「お客様は神様です。」の名言を吐いた三波春夫。このことばは意味慎重で、彼のHPを覗くとその真意がなんとなくわかったような気がするが、ぼくはさらに拡大解釈をしている。「神様がお客様です。」だ。体験コースのお客さんに「なぜ陶芸をやろうと思ったのですか」と聞くと、「一度はやってみたかった、いつかはやってみたかった」という答えがほとんど。なんとなく面白そうだからということで、工房にきてくれる。しかし、やったことがないので、本当は何も知らない。ところが、いざやってみると「こんなに面白いことだったのか」という感想がほとんど。なぜか。それは多分、それぞれのお客さんにまとわりついている神が仕向けたに違いないと思うほかないのである。何者かに突き動かされて工房を訪れる。そこで無防備に土と対面し、土の世界に引き摺り込まれる。ぼくもお客さんとともに引き摺り込まれる。一心同体なのである。神に操られながら。
会員との関係はちょっと違うと思うが根っこのところは同じだろう。違いと言えば、会員はそれなりに土との付き合いを経験しているので、無防備ではないということだ。お客さんは無防備な分土と素直に馴染んで楽しむ一方、会員は時々、自分を土に押し付け、無防備ではない分、土に嫌われたりしながら、前に進んでいく。そんな感じかな。
神が優れているのは、一切押し付けがましいところがないことだ。基本的に全肯定なのだ。そして、神は余計な力を発揮しない。だからここでいう神の存在は宗教というコンテクストからはちょっと外れている。
観無量寿経の仏の願は誰かにお願いするのではなく、自らが実践する願である。しかし、神は願うことはしても、神の力で何事かを成就することはしない。神に最も近いとされている天皇という神官も「皆が幸せになることを願っています」としか言わないし、その言葉に祈りを捧げればそこで宗教が発生する。しかし、受験生が合格祈願として、神殿で神に手を合わせても、神はせいぜい「がんばってね」というくらい。だから、宗教としての軋轢も生まれないし、神は尊ばれる。なかなか上手いシステムだ。

この二つの宗教観はぼくがくたばるまで纏わりついてくるんだろうな。
でも、悪い気はしない。八百万の神という世界観は何か豊かさを感じさせる。