ひとりごと

宗教の話その一

9月になっても、相変わらず体験のお客様が途切れず、ようやく、のんびりできた今日この頃である。といっても、明日からはまたまた忙しい日々に追われるようだ。

久しぶりに自分の作品を作ることができた。といっても、すでに作ってあった横濱陶藝倶樂部の課題の「秋刀魚の塩焼きのための皿」の変形バージョンを作ったまでである。でも、憚ることなく打ち解けた気分で土と対峙するのはやはり至福の時が流れる。

ところでせっかくHPをリニュアルしたのにも関わらず、忙しさにかまけてあまり手をつけていなかった。そこで今日は多少時間もできたので、最近、脳裏に浮かぶよしなし事を綴ってみたい。宗教の話である。今日はその一。次回にその二。その一とその二は繋がっているようで繋がっていないようで繋がっている話である。

ぼくは、小さい頃から宗教には頗る興味を持っていた。眼に見えない神様って何なんだろうとか、信心、信仰って何なんだろうとか、不思議でならなかった。その中でも、悪いことをすると地獄に落ち、良いことをすると天国に行くという宗教観が不思議でならなかった。また、他の神を信じることは許されないということも変な感じがしていた。一信教の神のわがままがおかしいと思っていた。単純な話である。神に力があり、ぼくを見守っていてくれたら、神の力で悪いことなどしないだろうから、天国に行けるはずだ。地獄に落ちるから、悪いことはするなとは変でしょう。悪いことは地獄とは関係なく悪いことだし、良いことは天国とは関係なく良いことのはず。おい、救世主とは何をしてくれるんだというわけ。

(仏教のお寺でお葬式をしても、故人は天国に行くと思っている日本人の能天気さには呆れるが)

高校に入って遠藤周作の『沈黙』を読んだ。「おい、宗教ってちょっとやばいんじゃないの。何も救ってくれないぞ。」というのがストレートな感想。でも、高校生くらいになると、聖書を読んだり、仏典を読んだり、まともに宗教のことを考える知恵がついたりするもの。そんな中で辻潤を通して出会ったのが、親鸞。はっきりいってばけもの。親鸞を通して出会ったのが、観無量寿経という経典。親鸞と観無量寿経をラディカルに捉えてぼくの宗教に関する視座は偏見に満ちているには違いないが、着地点を得ることができた。

親鸞の観無量寿経の解釈をぼくなりに解釈するとこうである。

仏の慈悲は無限である。善い行いをしても、悪さをしても、南無阿弥陀仏と念仏を唱えれば誰でも心が落ち着き救われる気持ちに満たされる。当然、そうした者たちは阿弥陀仏の願に基づいて極楽浄土にたどり着く。しかし、無限の慈悲に満たされた仏は、信心、信仰とは関係なく、南無阿弥陀仏を唱えなくても全ての生きとし生けるものを極楽浄土に導く。慈悲は無限なのだから。

ちょっと失礼な話だが善行を施して天国に行くつもりのキリスト教徒も行ってみたらそこは天国ではなく極楽浄土(その違いはよくわからないが)なのだ。

仏の決意はそういったものだ。信仰を廃棄している。「信心を持てる人は持てばいい。仏に縋りたい人は縋ればいい。しかし、そうでなくても全ての生きとし生けるものを救う。」といった決定的な決意。

ぼくがたどり着いた地点。この視座は道元の「人間死ねば全て終わり」という覚醒とともにまだ青二歳で余計なことばかり悩んでいた若きぼくを救ってくれたし、今のぼくのひとつの原点だ。

これが宗教の話、その一。

その二は神について。こちらの方はもろ作陶に結びつく話。